いろは丸展示館は、広島県福山市鞆町に位置し、1867年5月26日に備後灘で発生した「いろは丸」と「明光丸」の衝突事件に関する資料を展示している博物館です。この展示館は、1989年(平成元年)7月に開設され、歴史的な事件を詳しく伝える役割を担っています。
いろは丸展示館は、鞆の浦のシンボルとも言える「とうろどう」(常夜灯)のすぐ手前に位置しており、江戸時代に建てられた土蔵「大蔵」を利用しています。この土蔵は国の登録有形文化財に指定されており、歴史的な価値も高い建物です。館内には、慶応3年(1867年)に備後灘で沈没した「いろは丸」に関するさまざまな資料が展示されており、沈没状況を再現したジオラマや引き揚げられた品々が見られます。
展示館の2階には、坂本龍馬が滞在したとされる隠れ部屋が再現されています。これは高知県の造形作家である岡本驍(たけし)氏によるもので、龍馬の等身大の蝋人形も展示されています。このリアルな蝋人形は、訪れる人々に坂本龍馬の存在感を感じさせ、当時の歴史に思いを馳せることができます。
いろは丸展示館では、いろは丸と明光丸の衝突事件に関する多彩な展示が行われています。これらの展示を通じて、来館者は当時の状況を深く理解することができます。
沈没した「いろは丸」の一部が、海底20メートルの状態を原寸の70%で再現したジオラマで展示されています。壁面にはイラストが描かれており、これらはすべて岡本驍(たけし)氏の手によるものです。このジオラマは、いろは丸が沈んだ当時の状況を視覚的に理解できるよう工夫されています。
いろは丸から引き揚げられた陶器や部品なども展示されています。これらの展示品は、いろは丸の当時の生活や船内の様子を垣間見ることができる貴重な資料です。特に陶器類は、当時の文化や技術を物語るものであり、訪れる人々に多くの感動を与えます。
坂本龍馬の隠れ部屋ジオラマでは、龍馬が手に万国航法を持ちながら鎮座している姿が再現されています。この等身大の蝋人形も岡本驍氏によるもので、まるでその場に坂本龍馬がいるかのような臨場感を感じることができます。また、龍馬が実際に滞在した邸宅「桝屋清右衛門宅」は、現在も福山市鞆支所の隣に現存しており、一般公開されています。
いろは丸展示館へのアクセスは、JR山陽本線および山陽新幹線の福山駅から鞆鉄バスにて約30分、「鞆の浦」バスターミナルで下車し、徒歩5分で到着します。展示館専用の駐車場はありませんが、近隣には鞆城址など観光客用の市営駐車場がいくつかあります。ただし、駐車スペースは限られているため、混雑時にはご注意ください。
いろは丸展示館は、幕末に起こった「いろは丸」と「明光丸」の衝突事件を後世に伝える重要な施設です。この事件は、日本の歴史の中でも特に重要な出来事の一つであり、坂本龍馬と土佐藩が関わったことでも知られています。「いろは丸」は、龍馬が率いた海援隊が所有していた蒸気船で、明光丸は紀州藩所有の軍艦でした。衝突事故の結果、「いろは丸」は沈没し、賠償問題などを引き起こしました。
この事件は、当時の日本における海運や外交問題にも大きな影響を与えました。坂本龍馬は、この事件をきっかけに、紀州藩と交渉を行い、賠償金を獲得しました。この成功は、彼の外交的手腕が高く評価される一因となり、後の薩長同盟や大政奉還へとつながる道を切り開きました。
いろは丸展示館を訪れることで、歴史の中に生きた坂本龍馬の姿や、彼が関わった事件の詳細を学ぶことができるでしょう。また、展示品を通じて、幕末という激動の時代に生きた人々の生活や思想にも触れることができます。歴史好きな方はもちろん、坂本龍馬に興味を持つ方にもぜひ訪れていただきたい施設です。
いろは丸(いろはまる)は、江戸時代末期の1860年代にイギリスで建造された蒸気船で、当時の伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していました。船が大洲藩の所有となった際、「伊呂波丸」と改名されましたが、「以呂波丸」と表記されることもありました。45馬力の蒸気機関を搭載し、3本のマストを持ち、帆走も可能な船でした。いろは丸は坂本龍馬が率いる海援隊が運航していた時期に、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突事故を起こしたことで特に知られています。
なお、いろは丸は一時、薩摩藩の所有となっており、当時の船名は「安行丸」でした。同時期に薩摩藩が建造した日本最初の西洋型帆走船も「いろは丸」と名付けられていましたが、これは別の船であり、今回のいろは丸とは関係がありません。
いろは丸は1862年(文久2年)にイギリス、スコットランドのグリーノックで建造されました。全長は54メートルで、1863年(文久3年)に薩摩藩が武器商人のトーマス・ブレーク・グラバーから購入しました。その後、薩摩藩の手を離れ、1866年(慶応2年)に大洲藩が新式銃器購入のために派遣していた国島紹徳が、薩摩藩士の五代才助(五代友厚)の斡旋により、銃器の代わりに蒸気船を購入しました。国島は以前から蒸気船の必要性を感じており、同志と相談の上での購入でしたが、藩に無断で購入したため、藩内の守旧派から激しい非難を受けました。
いろは丸が大洲藩の所有となった後、藩士の国島紹徳や井上将策、さらに土佐藩出身の坂本龍馬ら海援隊の隊員が乗船し、長浜に回航されました。最初の回航の際には、薩摩藩の船として島津家の紋所を掲げて航行したとされていますが、後に長崎から出航し、再び長浜に戻った際には藩主加藤家の紋所を掲げて入港しました。このことから、大洲藩当局も一応の理解を示していたと考えられます。大洲藩は幕府に対して、船は城下町人の対馬屋定兵衛が購入したもので、藩士が乗り組んで航海訓練および交易を行う旨を届け出ました。
1867年(慶応3年)4月、長崎から大阪へ小銃や弾薬を輸送する必要があった土佐藩の後藤象二郎が、いろは丸の貸与を大洲藩に求めました。こうして、いろは丸は土佐藩に貸与され、坂本龍馬ら海援隊員が乗り組んで長崎を出港しました。しかし、1867年5月26日(慶応3年4月23日)、瀬戸内海を航行中に紀州藩の軍艦・明光丸(880トン)と衝突し、鞆の浦まで曳航される途中で沈没しました。
1867年5月26日、いろは丸は大洲藩から借り受けた海援隊によって操縦され、瀬戸内海を大阪に向けて航行していました。夜の23時頃、長崎港に向けて同海域を航行していた紀州藩の軍艦・明光丸と備中国笠岡諸島付近で進路が交差し、衝突事故が発生しました。いろは丸は自力航行不能となり、明光丸が鞆の浦まで曳航しようとしましたが、翌日の早朝、激しい風雨のため、沼隈郡宇治島沖で沈没しました。この際、坂本龍馬をはじめとするいろは丸の乗組員は全員明光丸に移乗し、死者は発生しませんでした。
沈没後、坂本龍馬らは鞆の浦に上陸し、龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋・桝屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し、賠償交渉を行いました。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしましたが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりの万国公法を持ち出し、紀州藩側の過失を追及しました。
現在、いろは丸は「いろは丸想像図」(岡部澄雄画・高知県立坂本龍馬記念館所蔵)や福山市営渡船「平成いろは丸」の建造基本計画により外輪船として検討されていますが、実際にはスクリュー船であった可能性も指摘されています。勝海舟の『海軍歴史』にもスクリュー船であったと記されており、船体調査の結果、スクリュー船の可能性が高いとされていますが、今後のさらなる調査が求められています。
伊予国大洲藩長浜(現在の愛媛県大洲市長浜町)
全長:30間(約54メートル)
全幅:3間(約5.4メートル)
深さ:2間(約3.6メートル)
トン数:160トン
機関:45馬力の蒸気機関
マスト:3本あり、帆走可能
1862年(文久2年):イギリス、スコットランドのグリーノックで建造され、アビゾ号(アビソ号)と命名される。
1863年(文久3年):薩摩藩が武器商人トーマス・ブレーク・グラバーから「安行丸」として購入。
1865年(慶応元年):薩摩藩士五代友厚により「安行丸」がマカオ生まれのポルトガル人ロウレイロへ売却される。
1866年(慶応2年):大洲藩の国島六左衛門がアビゾ号を4万メキシコ・パタカ(1万両相当)で購入し、いろは丸と改名される。
1867年(慶応3年):いろは丸が大洲藩士によって幕府に届け出られる。その後、海援隊に貸与され、瀬戸内海で明光丸と衝突し、沈没。