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大久野島

(おおくのしま)

大久野島は、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つであり、広島県竹原市に属する無人島です。現在は定住者はいませんが、居住者は存在します。「ウサギの島」や「毒ガスの島」としても広く知られています。

地理的特徴

大久野島は、本州の竹原市忠海から南方沖合い3kmに位置しており、面積は0.7平方キロメートル、周囲は4.3kmです。島の北側の最大標高は108mで、気候は温暖な瀬戸内海式気候に属します。住所は広島県竹原市忠海町大久野島にあり、全域が旧豊田郡忠海町に含まれます。このため、住所は忠海町表記となっています。

周辺の地理

大久野島の西側1.1kmには無人島の小久野島があり、その南には松島が位置しています。さらに西には阿波島、南西には大崎上島が広がり、南側には愛媛県との県境があり、その先には大三島があります。東側には高根島と生口島が広がっています。

島内の施設

大久野島はほぼ全域が環境省所有の国有地であり、観光施設として「休暇村大久野島」や「毒ガス資料館」、「大久野島ビジターセンター」が存在します。2010年時点での人口は22人で、すべての居住者は休暇村の従業員です。島内には民家がなく、一般車両の通行は認められていません。ただし、携帯電話の通信環境やWi-Fiは整備されており、休暇村のホテル内で利用可能です。一方、上水道は本州から繋がっておらず、飲料水は島外から船で運ばれています。

歴史

古代から近世までの歴史

大久野島の海域では、ナウマン象の臼歯が発見されており、これにより古代の瀬戸内海が平原であり、現在の島はその頃は丘の一部であったことが証明されています。しかし、この島からは遺跡や古墳、城址といった埋蔵文化財は発見されていません。

平安時代から室町時代

大治4年(1129年)、平忠盛が山陽道・南海道の海賊追討使としてこの地域を平定した際に、この地を「忠海」と名付けました。また、康応元年(1389年)には、足利義満が厳島詣の帰路でこの海域で座礁し、忠海で潮を待ったことが『鹿苑院義満公厳島詣記』に記されています。このことから、この海域が古くから重要な航路であり、海賊が横行していたことがうかがえます。

村上水軍の影響

この島にはかつて村上水軍の末裔が住んでいたとされています。中世には、南側の大三島が越智氏や大祝氏の三島水軍の拠点となっていました。一方、北の忠海は浦氏、東側の生口島は生口氏の拠点となっていました。安土桃山時代には、村上武吉や村上元吉親子が竹原に移り住んだため、村上水軍の末裔が大久野島に住み着いたのは近世のことである可能性があります。

明治から昭和までの歴史

芸予要塞の設置

明治27年(1894年)、大久野島に最初の近代的施設として大久野島灯台が建てられました。来島海峡は海の難所であったため、三原瀬戸航路を安全に航行するために建設されました。続いて明治30年(1897年)には、瀬戸内海を防衛するために大久野島砲台(芸予要塞)が設置されました。しかし、芸予要塞は一度も戦闘に使われることなく、大正13年(1924年)に廃止されました。

毒ガス製造の島

昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)にかけて、大久野島では大日本帝国陸軍によって太平洋戦争で使用される毒ガスが秘密裏に製造されていました。この時期、島内に住んでいた住民は強制退去させられ、毒ガス製造が行われました。戦争末期には、風船爆弾の製造も行われていました。毒ガス製造の痕跡は、現在も島内の遺構として残っています。

地図から消された島

昭和初期、この島は「地図から消された島」として知られていました。陸軍の毒ガス工場があったため、当時の地図では機密保持のために大久野島が空白地域として扱われていました。これは昭和7年(1932年)の軍事機密によるものであり、島全体が秘密にされていたのです。

現代の大久野島

観光地としてのウサギの島

現在の大久野島は、「ウサギの島」として多くの観光客に親しまれています。2018年時点で島内に生息するウサギの数は900羽を超えており、観光名所となっています。島内にはウサギの餌やりができる場所や、ウサギに関するイベントも開催されています。

アクセスと観光情報

大久野島へは、本州の忠海港からフェリーでアクセスすることが可能です。島内には宿泊施設「休暇村大久野島」もあり、ウサギと触れ合いながらのんびりとした時間を過ごすことができます。また、毒ガス資料館やビジターセンターを訪れ、島の歴史について学ぶこともできます。

Information

名称
大久野島
(おおくのしま)

竹原・三原

広島県