御手洗は、広島県呉市に属する大崎下島に位置する港町で、瀬戸内海に浮かぶ小さな町です。1994年(平成6年)には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、これは日本全国で38番目の選定となりました。御手洗の街並みは、江戸時代から現代に至るまで、当時の風情を色濃く残しており、歴史的価値の高い地域として多くの観光客に親しまれています。
御手洗は、大崎下島の東端に位置し、周囲を海に囲まれた風光明媚な港町です。周辺には広島県道355号大崎下島循環線が通り、御手洗港の背後には美しい町屋が広がっています。北西には大長地区があり、東側には愛媛県今治市の岡村島が位置しています。この地域は安芸灘オレンジラインによって結ばれており、呉市本土とも安芸灘とびしま海道で繋がっています。
かつては、豊田郡豊町御手洗と呼ばれており、現在は瀬戸内海国立公園内に位置しています。そのため、豊かな自然と歴史が共存する美しい景観が広がっています。
御手洗という地名にはいくつかの伝承が残されています。その一つとして、神功皇后が三韓征伐の際にこの地で手を洗ったことが由来とされています。現在も天満宮に「御手洗の井戸」があり、これはもともと神功皇后の伝承として語り継がれてきました。
また、菅原道真が昌泰4年(901年)に大宰府へ左遷された際、この地で手を洗い、祈りを捧げたという伝承もあります。この井戸は後に「菅公手洗いの井戸」として知られるようになりました。
平安時代の武将平清盛も、上洛の際にこの地で嵐に遭遇し、観音様に手を合わせて祈りを捧げたと言われています。この出来事を機に、清盛は草庵を建立し、十一面観音を安置しました。この草庵は現在も「満舟寺」として存在し、御手洗の歴史を語る重要な場所となっています。
御手洗は、江戸時代以降、瀬戸内海の重要な交易港として発展していきました。当時の和船は追い風と潮流を利用して航行していたため、「風待ち港」や「潮待ち港」としての役割を果たしていました。特に西廻海運(日本海から瀬戸内海を経由して大阪に至る航路)の確立により、御手洗は多くの廻船が寄港する場所となりました。
御手洗は農耕地としての役割を果たしていましたが、廻船の寄港地として次第に発展していきました。1666年(寛文6年)に広島藩からの許可を受け、御手洗港が整備され、ここから本格的な港町としての歴史が始まります。17世紀後半から18世紀にかけて急速に発展し、米取引の拠点としても重要な役割を果たしました。
また、御手洗は文化的にも成熟し、俳諧が盛んに行われるなど、文人墨客との交流が深まりました。特に栗田樗堂や頼杏坪といった著名な文化人がこの地に滞在し、文化の発展に寄与しました。
御手洗には、当時「若胡子屋」「藤屋」「堺屋」「扇屋」という4軒の待合茶屋が存在し、花街としても賑わっていました。特に「おちょろ船」と呼ばれる船上での商売は、港町ならではの特徴的な営業形態であり、多くの船乗りたちが利用していました。
また、この花街の遊女たちは、御手洗の住民たちからも非常に大切にされており、その独特の文化が現在も「おいらん公園」などで見ることができます。
御手洗には、伊能忠敬やシーボルト、吉田松陰といった歴史上の著名人も訪れています。特に幕末には、薩摩藩と広島藩の密貿易「芸薩交易」の拠点としても知られ、政治的にも重要な場所でした。1867年には「御手洗条約」が結ばれ、倒幕運動においてもこの地が舞台となりました。
明治時代に入ると、汽帆船の登場や鉄道の発展により、風待ち潮待ちの港としての役割は次第に薄れていきました。しかし、経済成長期においても大規模な開発が行われなかったため、御手洗の美しい町並みはそのまま保存されました。
現在では、観光地として多くの人々が訪れる場所となっており、かつての港町としての風情や歴史的な建造物群が残されています。
御手洗の街並みは、元々狭い土地に何度も埋め立てを行いながら拡大していった港町です。ここでは大小さまざまな商家や茶屋、船宿、そして神社仏閣が見られます。また、江戸時代に整備された波止や雁木などの港湾施設も、今なおその姿を残しています。町の道は網の目のように張り巡らされ、狭い路地が続くのも特徴的です。
町屋の建築様式は、切妻造(きりづまづくり)・桟瓦葺(さんがわらぶき)が主流で、明治期以降に建てられたモダンな建築物も見受けられます。さらに、御手洗では多くの家屋が漆喰(しっくい)を使い、なまこ壁が施された豪邸も点在しています。これは、宝暦9年(1759年)に大火が発生し、火事対策として漆喰やなまこ壁が普及したことによるものです。
町の家屋は、全体的に間口が狭く奥行きが長い構造をしています。これは、江戸時代に間口の大きさで税金を課していたため、その対策として狭い間口が好まれたからです。また、千砂子波止(ちさごはと)は江戸時代後期に整備され、現存するものとしては日本でも有数の規模を誇ります。この港湾施設と、浜沿いに続く船宿(旅館ではなく問屋)は、当時の日本の港町の姿を今に伝えています。
御手洗には多くの歴史的建造物や文化財が残っており、以下はその代表的なものです。
御手洗が開かれた寛文6年(1666年)に初代が建てられたとされる神社で、現在の本殿と拝殿は享保8年(1723年)に再建されたものです。県の重要文化財に指定されており、流造(ながれづくり)の形式を持つ、島嶼部の小規模神社として貴重な文化財です。
文政11年(1828年)、住吉大社を勧請して建立された神社で、本殿や瑞垣(みずがき)および門が県の重要文化財に指定されています。神社の瑞垣には、千砂子波止の整備に参加した茶屋の芸妓たちの源氏名が刻まれています。
享保9年(1724年)に広島藩公認の待合茶屋として栄え、御手洗最大の茶屋でした。50人、または100人の芸妓を抱えていたとも伝えられています。現存する唯一の茶屋であり、現在は資料館として一般に公開されています。
幕末の七卿落ちの際、長州に逃れた五卿がこの御手洗で宿泊した屋敷跡です。家屋も残っており、当時の港町の風情を今に伝えています。
文政年間に建てられた切妻造の平屋で、かつては大洲藩の船宿として利用されていた記録が残っています。現在は喫茶店兼ギャラリーとして活用されています。
町年寄や庄屋を務めた高橋家の別宅であり、伊能忠敬が測量の際に宿泊した場所でもあります。現在は町並み保存センターとして利用され、伊能忠敬が測量した地図のレプリカが展示されています。
御手洗条約が締結された場所であり、上田宗箇流の茶室が現存する貴重な住宅です。主屋が市の有形文化財に指定されています。
寺院は享保3年(1718年)に建立されたもので、江戸時代中期までにはその規模を拡大しました。境内の石垣は加藤清正が築いたと伝えられており、歴史的価値が高い場所です。
文政12年(1829年)に広島藩が築いた波止場で、当時の最高技術で作られたものです。安政大地震や台風被害にも耐え、江戸時代からほぼそのままの形で現存しています。高燈籠は、1991年の台風により倒壊しましたが、翌年に再建されました。
御手洗の文化や祭りも魅力的です。特に有名なのは「御手洗の櫓祭」で、毎年7月下旬に行われます。この祭りでは、恵美須・天満・住吉の三社が合同で神輿を担ぎ出し、街を練り歩く姿が壮観です。
御手洗はその美しい街並みから、多くの映画やドラマのロケ地としても知られています。特に有名な作品としては、『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(1981年)や、村上春樹原作の映画『ドライブ・マイ・カー』(2021年)があります。また、アニメ『たまゆら』では、主要キャラクターの一人である桜田麻音の出身地として描かれており、ファンの間でも親しまれています。
御手洗は、歴史的な価値だけでなく、その美しい景観や文化的魅力で多くの人々を惹きつけています。今後も、町並みの保存と観光振興を両立させながら、多くの人々に愛され続けることでしょう。