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音戸の瀬戸

(おんど せと)

音戸の瀬戸は、広島県呉市に位置する、本州と倉橋島の間にある海峡です。この「瀬戸」という言葉は、一般に海峡を指します。音戸の瀬戸は、南北に約1,000メートルの距離があり、幅は北口で約200メートル、南口では最も狭い部分で約80メートルです。かつては、この海峡の中でも特に急流となる全長200メートル、幅90メートルの部分を指して「瀬戸」と呼んでいました。

瀬戸内銀座としての音戸の瀬戸

音戸の瀬戸は「瀬戸内銀座」とも称され、瀬戸内海における主要な航路のひとつです。この海峡は歴史的にも重要な位置を占めており、平安時代には平清盛が開削したという伝説が残されているほか、その美しい景観から観光地としても広く知られています。

音戸の瀬戸の沿革

隠渡(おんど)の由来

「音戸」という地名の由来については、いくつかの説があります。その中でも一説として、「隠渡」という名称が挙げられます。これは、かつてこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから、隠れて渡る「隠渡」と呼ばれるようになったというものです。

奈良時代の伝承

伝承によると、音戸の地には奈良時代にはすでに人々が住んでいたとされています。当時、この地域の海岸はすべて砂浜で、警固屋(けごや)と幅約0.9メートルの砂州でつながっていました。この付近の集落を「隠れて渡る」という意味で「隠渡」または「隠戸」と呼んだといわれています。そして、大阪の商人たちがこの名称を使用しやすくするために、書きやすい「音戸」という名前にしたのが、現在の地名の始まりだと言われています。

その他の伝承

他にも、音戸の地名の由来として、平家の落人(おちうど)がこの地を渡ったことや、海賊が渡ったことが由来とされる伝承もあります。これらの伝承は、音戸の瀬戸が古くから重要な海路であったことを示しています。

古代の航路と倉橋島

音戸の瀬戸が位置するこの地域には、古代から瀬戸内海を横切る主要な航路が存在していました。この航路は、朝廷によって難波津から大宰府をつなぐものとして整備されていたと考えられています。また、倉橋島の南側には「長門島」と呼ばれる地域があり、ここは潮待ちの港として知られていました。さらに、遣唐使船がこの島で造られたとも考えられており、倉橋島が古来から造船の島であったことを示しています。

渡子(わたご)の由来

音戸の瀬戸の北側には「渡子」という地名があり、この地名は7世紀から9世紀にかけて交通の要所として公設渡船があったことに由来しています。このことから、古代から音戸の瀬戸には渡船が存在していたと推測されています。すなわち、奈良時代には倉橋島の南側と北側のルートが確立していたことが考えられます。

平清盛と音戸の瀬戸

平清盛の伝説

音戸の瀬戸にまつわる最も有名な伝説は、平安時代の武将、平清盛がこの海峡を開削したという話です。伝説によれば、平清盛は1165年(永万元年)の旧暦7月10日にこの工事を完成させました。その目的は、厳島神社への参詣航路の整備や、荘園からの租税運搬、日宋貿易のための航路開拓、さらには海賊取り締まりのためであったと言われています。

清盛の日招き伝説

工事が進んでいたある日、日が沈みかけて工事が中断しそうになりました。そこで、平清盛は観音山の頂に立ち、金扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫ぶと、沈んだはずの日が再び昇り、工事は無事に完了したとされています。このエピソードは「清盛の日招き伝説」として、今でも語り継がれています。

にらみ潮伝説

もう一つの伝説として、平清盛が厳島神社の巫女に恋心を抱き、その巫女が清盛に「瀬戸を開削したらあなたの意に従う」と言ったことから、清盛は開削を決意したというものがあります。しかし、巫女は大蛇に姿を変えて海峡を逃れ、怒った清盛は海をにらみつけると、潮の流れが変わり船が進んだという「にらみ潮伝説」も残されています。

音戸の清盛塚

清盛の工事にまつわる安全祈願のため、人柱の代わりに「一字一石の経石」を海底に沈めたと言われており、その後、音戸の地には「清盛塚」と呼ばれる石塔が建立されました。この清盛塚は、現在も音戸の瀬戸の象徴的な存在として残されています。また、音戸という地名も、清盛の「御塔(おんとう)」に由来するという説があります。

清盛伝説の真偽

平清盛が音戸の瀬戸を開削したという伝説は、古くからその真偽が疑われてきました。大きな要因として、当時の朝廷や清盛の記録には、この工事に関する記述が一切残されていないことが挙げられます。しかし、清盛が厳島神社を造営したことや、瀬戸内海の航路を整備した事実があることから、音戸の瀬戸にも何らかの影響を与えた可能性は十分に考えられます。

地元の伝承

地元の呉市では、この伝説は今でも事実として語り継がれています。一方で、全国的に見ると、清盛伝説は江戸時代後期に儒学者によって再評価されたものの、大衆文化としてはそれほど広く受け入れられることはなく、現代では一部の地域でしか知られていません。

交通と航路の特徴

音戸瀬戸航路の概要

音戸の瀬戸は、北側の広島港や呉港から南側の安芸灘を結ぶ最短ルートに位置し、貨物船や漁船、高速旅客船など多種多様な船舶が航行しています。航路の幅は約60メートルで、最浅部の水深は5メートルです。また、補助航路として水深3メートルの航路も両外側に設けられています。航行する船舶は、北側では第二音戸大橋(満潮時桁下39メートル)、南側では音戸大橋(満潮時桁下23.5メートル)の下を通過します。

船舶交通の多様性

この海峡を通過する船舶の数は、1960年代には1日あたり約700隻、1990年代には約500隻に達していました。貨物船や油送船、漁船、プレジャーボートに加え、定期旅客船や台船・曳船もこの狭い航路を利用しています。これにより、音戸の瀬戸は国内でも交通量の多い狭水道の一つとなっています。

航行の難しさと安全対策

音戸の瀬戸は潮流が強く、狭い航路を通過する船舶の多さから、特に南側では約90度に曲がる航路があり、視界も非常に悪いことが航行を難しくしています。このような状況にもかかわらず、海上保安庁の指導と周知活動により、他の狭水道に比べて海難事故は少ないと言われています。

音戸瀬戸の航行規則

航行規則の概要

音戸の瀬戸を通過する際には、船舶は特定の航行ルールに従う必要があります。例えば、総トン数5トン以上の船舶は、北口および南口に設置された灯浮標を左げんに見ながら航行することが定められています。また、速力をできる限り落とし、狭水道では右転してすれ違うことが推奨されています。特に、200トンを超える船舶は、音戸灯台と清盛塚の間で他の船を追い越すことが禁じられています。

灯浮標と事故対策

音戸瀬戸の北口と南口には、それぞれ灯浮標が設置されており、船舶はこれを目印にして安全に航行します。しかし、2023年2月には、貨物船が岸に接近しすぎたことで、伝清盛塚への参拝橋が海中に落ちる事故が発生しました。この橋の撤去工事は同年10月25日から開始されましたが、再建についてはまだ未定とされています。

渡船と橋梁

音戸渡船の歴史と廃止

かつて、音戸瀬戸を渡る手段として「音戸渡船」または「音戸の渡し」が運航されていました。この航路はわずか約90メートルの短い距離を2分ほどで渡り、日本一短い海上定期航路として知られていました。しかし、コロナ禍による乗客減少や船の損傷により、2021年10月31日をもって廃止されました。

音戸大橋と第二音戸大橋の役割

音戸大橋は、1961年に有料橋として架けられ、1974年に無料化されました。しかし、歩行者にとっては不便であったため、音戸渡船の運航はその後も続けられました。2013年には、広域交通網整備の一環として第二音戸大橋が架けられ、特に災害時の緊急道路としての役割が期待されています。

音戸の舟唄と文化

音戸の舟唄

「音戸の舟唄」は、音戸の瀬戸を通過する船頭たちが歌った歌であり、江戸時代にはすでに歌われていたとされています。この歌は、昭和30年代に高山訓昌によって編曲され、昭和39年には保存会が設立されました。現在でも地域の伝統として歌い継がれています。

音戸清盛祭

音戸清盛祭は、5年から6年に一度、旧暦3月3日に開催される祭りで、清盛を偲んで行われていた念仏踊りがその起源と言われています。天保年間には、念仏踊りが時代行列に変わり、現在では約500人が参加する大規模な行列が行われています。この祭りは、呉市無形文化財にも指定され、地域の重要な文化行事となっています。

音戸清盛太鼓保存会

音戸の瀬戸と清盛をテーマにした「音戸清盛太鼓」は、1992年に音戸町制60周年を記念して創設されました。この太鼓は、地域の祭りやイベントで演奏され、地元の人々によって大切に守られています。

Information

名称
音戸の瀬戸
(おんど せと)

呉・江田島

広島県