広島県 » 三次・世羅・庄原

灰塚ダム

(はいづか)

灰塚ダムは、広島県三次市に位置し、一級河川である江の川水系の上下川に建設された重要なダムです。このダムは国土交通省中国地方整備局によって管理されており、高さ50.0mの重力式コンクリートダムとして知られています。

このダムは、上下川及び馬洗川(ばせんがわ)、そして江の川の洪水対策や三次市への上水道の供給を目的として設置された特定多目的ダムです。ダムによって形成された人造湖は「ハイヅカ湖」と命名され、地域のシンボルともなっています。

灰塚ダムの地理的背景

上下川は、江の川の主要な支流である馬洗川に合流する河川です。上下川は、かつて石見銀山街道の宿場町として栄えた「上下」付近を水源とし、北西に流れ、途中でハイヅカ湖と田総川を経由して馬洗川に合流します。この馬洗川は三次市の中心部でさらに西城川と合流し、最終的に江の川に流れ込みます。ダムはこの上下川と馬洗川の合流点から少し上流に建設されており、広範囲にわたる洪水防止に貢献しています。

建設当初、この地域は双三郡三良坂町でしたが、平成の大合併によって三次市三良坂町となりました。さらに、ハイヅカ湖は三次市吉舎町と庄原市総領町にもまたがり、これらの地域も合併によってそれぞれ三次市吉舎町と庄原市総領町となっています。ダム名は、このダムの建設によって水没した「灰塚」地区にちなんで命名されました。

ハイヅカ湖の特徴

ハイヅカ湖は、ダムによって形成された人造湖で、その名前は一般公募によって決定されました。カタカナ表記の湖名は全国的にも非常に珍しく、特に北海道を除くとアイヌ語由来の湖名が付けられる例はほとんどありません。

ダムが完成し、試験湛水中に満水状態となった際には、非常用洪水吐きから一斉に水が放流されました。この壮大な光景を目当てに、わずか一週間で県内外から二万人もの観光客が訪れ、地域経済にも大きな効果をもたらしました。

小堰堤と環境保護

ハイヅカ湖には、二つの小堰堤が設置されています。上下川には「知和堰堤」、田総川には「川井堰堤」がそれぞれ設置されており、川井堰堤は台形CSGダムとして建設されています。これらの小堰堤の目的は、ダム湖上流部の水量を維持し、湖岸の乾燥化を防止すること、そしてダムにおける堆砂の防止です。

特に、知和堰堤の上流には「知和地区環境総合整備計画」に基づいて知和ウェットランドが整備され、湿地や水辺を人工的に作り出し、両生類、昆虫、水生植物の生育を促す環境が整備されています。この環境整備の効果はすぐに現れ、建設中には絶滅危惧種である国の特別天然記念物、コウノトリが飛来しました。バードウォッチング用の観察小屋も設置され、自然環境の保護と観光を両立させています。

レクリエーション施設

ハイヅカ湖周辺には、観光客向けの様々なレクリエーション施設も充実しています。湖畔には、水際まで降りて楽しめる「才の峠広場」や、モーターサイクルスポーツ協会が認定する「灰塚ダムトライアルパーク」があります。さらに、「きさ安田パークゴルフ場」や「田総の里スポーツ広場」といった施設もあり、地元住民や観光客が楽しめるスポットとなっています。

また、湖周辺には3,000本ものモミジが植えられた「モミジ山」や「大谷植物園」もあり、四季折々の風景が楽しめます。さらに、灰塚ダム本体も見学が可能で、ダム下流にある「灰塚ダム記念公園」からエレベーターを使ってダム頂上まで登ることができます。このエレベーターに通じるトンネル内では、防犯対策の一環として常時広島FMが放送されています。

灰塚ダムの歴史的背景

灰塚ダムが建設された江の川流域は、中国地方最大の河川である「江の川」に位置しています。この地域の平地は限られており、そのわずかな平地に耕地や住宅が集中しています。特に三次市は交通の要衝として古くから発展し、江戸時代には広島藩の支藩である三次藩が置かれていました。

しかし、地形的要因から三次市は頻繁に洪水被害に見舞われており、特に江の川が大雨で増水すると、三次盆地は広大な湖のように水に覆われました。こうした被害を防ぐため、1953年から国が堤防建設を中心とした河川改修を進めてきました。

昭和47年7月豪雨による被害

1972年7月、中国地方全域を襲った豪雨「昭和47年7月豪雨」により、江の川流域、特に三次市は甚大な被害を受けました。この豪雨によって馬洗川の堤防が決壊し、三次市内に大量の水が流れ込みました。この災害で14,000戸が浸水し、22人の尊い命が失われました。

この洪水を契機に、江の川流域の治水対策が求められるようになり、馬洗川流域に灰塚ダムが建設されることが決定しました。

灰塚ダム建設の経緯と課題

灰塚ダムの建設計画は、1965年から予備調査が開始されましたが、地元住民の激しい反対運動により、ダム建設には41年もの年月がかかりました。特に、水没する地域の住民たちは住居や農地の喪失に対して強い反対を示し、「灰塚ダム反対同盟会」を結成しました。

この反対運動は、日本国内でも屈指の激しいダム建設反対運動として知られており、最終的には補償交渉などを経て、ようやくダム建設が実現しました。

Information

名称
灰塚ダム
(はいづか)

三次・世羅・庄原

広島県