清神社は、広島県安芸高田市吉田町に鎮座する歴史ある神社で、旧郷社に指定されています。祭神として、須佐之男命を主祭神に祀り、相殿には脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命、五男三女神が祀られています。また、摂社として伊勢神社があり、天照皇大神と早良親王(崇道天皇)も祀られています。
『神武天皇聖蹟誌』(1941年、広島県発刊)によると、清神社の中之玉殿には素戔鳴尊、左之相殿には三大神、右之相殿には八王子が祀られています。これにより、神社全体が神々の集合体としての強い神秘性を帯びています。
清神社の由緒は『日本書紀』巻第一の神代上第8段に記された「安芸国可愛之川上(えのかわかみ)」の地に由来し、須佐之男命が八岐大蛇を退治した地とされています。その際、須佐之男命が「吾が心清清(すがすが)し」と言ったことから「清神社」という名称が生まれたと伝えられています。古くは「行宮清神社」「祇園社」「祇園崇道社」と呼ばれていましたが、明治5年(1872年)の神仏分離により現在の名称となりました。
また、境内にある杉の巨木の年輪を調査した結果、約1200年以上の歴史があることが判明し、その切り株が現在も展示されています。この巨木の存在が、清神社の歴史的価値を一層高めています。
中世に入ると、京都祇園社の荘園「吉田荘」の鎮守神として清神社は祀られ、一時期は早良親王の祟りを鎮めるために「祇園崇道社」としても知られていました。鎌倉時代末期からは、吉田郡山の鎮守神として安芸毛利氏が篤く信仰し、歴代の毛利氏が社を崇敬しました。特に、毛利元就、隆元、輝元などの有力な棟札が残されており、その重要性が伺えます。
さらに、毛利氏が郡山城を構える間、山麓の現在の社殿だけでなく、山頂に近い中間地点にも社殿が建立されていたことが記録されています。このように、清神社は毛利氏と深い縁を持つ神社として、戦国時代に大いに栄えました。
現在の清神社の社殿は元禄7年(1694年)に建立され、正面には千鳥破風、軒唐破風を構え、5本の太い柱が特徴的な五間社切妻造りです。境内には樹齢700年以上ともいわれる老杉がそびえ立ち、歴史の重みを感じさせます。
毎年5月5日に行われる例祭は「吉田の市入り」として有名で、多くの参拝者が訪れます。また、Jリーグチームのサンフレッチェ広島が毎年必勝祈願に訪れることで知られています。
境内には、毛利元就の継母である杉大方の菩提を弔うために建立された「椙若社」があります。この社は昭和25年(1950年)のキジア台風で倒壊しましたが、平成9年(1997年)に地元住民の手で約1千万円をかけて復興されました。現在では杉大方を偲ぶ場所として、多くの人々が訪れます。
清神社は、毛利元就の依頼で聖護院門跡道増が墨書した「感神院」の扁額(永禄6年(1563年))や、元亀3年(1572年)に吉田神社神主・吉田兼右が参籠した記録が残された連子窓など、多くの文化財を所有しています。また、元亀年間の舞楽面も現存しており、歴史的に貴重な社宝が多く保管されています。
清神社は郡山山麓にあり、郡山築城以前から存在していました。社宝として残されている棟札や、毛利氏との深い歴史的関係は、この神社の重要性を物語っています。現在の社殿は元禄7年に建立され、清神社の荘厳な姿を今に伝えています。特に境内にそびえる老杉は樹齢1000年以上ともいわれ、その存在感が清神社の神秘性を一層高めています。
清神社は、Jリーグのサンフレッチェ広島の必勝祈願の地としても知られています。地元の吉田町をマザータウンとするサンフレッチェ広島は、毎年シーズン開始前に必勝祈願を行っています。また、卓球日本代表も平成20年(2008年)と平成24年(2012年)のオリンピックに際して必勝祈願に訪れています。
この際、清神社の宮司は「三本の破魔矢」を手渡し、必勝祈願を行う者に力を与えています。この三本の破魔矢は、毛利元就の「三本の矢」の故事に由来しており、ここでしか手に入れることができない特別な御守りです。
清神社へは、JR向原駅から車で約10分、中国自動車道高田ICからも車で約10分の距離にあります。広島バスセンターからは、広電バス「吉田」行きに乗り、「安芸高田市役所前」バス停で下車し、徒歩約10分で到着します。