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吉田郡山城

(よしだ こおりやまじょう)

吉田郡山城は、広島県安芸高田市吉田町吉田にかつて存在した日本の城で、戦国時代には毛利氏の居城として知られていました。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として、多治比猿掛城とともに国の史跡に指定されています。

概要

吉田郡山城は、吉田盆地の北に位置する郡山の全体に広がる巨大な山城です。築城当初は小規模な砦のような城でしたが、毛利氏の勢力拡大に伴い拡張され、山全体が城郭として要塞化されました。毛利輝元が広島城に移るまで、吉田郡山城は毛利氏の居城として使用されていました。

近年では安芸高田市による発掘調査が進み、城の建物についての新たな情報が明らかになっていますが、予算の都合で建物の木造復元計画は実施されていません。

沿革

室町時代まで

吉田郡山城の築城時期は不明ですが、城内にある祇園社(現在の清神社)が正中2年(1325年)より前に創建されたことから、それ以後に築城されたと考えられています。吉田荘の地頭として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)とされ、「高田郡村々覚書」(1705年)によると、時親がこの城に住んだと記されています。

文和元年(1352年)には、毛利元春が「吉田城」と称される城に籠もったことが記録されており、また応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっていることから、元春が築城した可能性もあります。しかし、これが現在の吉田郡山城に直接つながるものかどうかははっきりしていません。

当初の吉田郡山城は国人領主の一般的な城と同様、小規模なものでした。12代目毛利元就が大永3年(1523年)に入城して以降、元就は城を拡張し、山全体を城域とする要塞化を進めました。特に、天文9年(1540年)から翌年にかけて行われた吉田郡山城の戦いで、尼子詮久率いる大軍を撃退する際には、農民男女を含む約8000人が籠城しましたが、当時はまだ城の拡張が完了していませんでした。

安土桃山時代

毛利元就の時代には、城内に元就や嫡子毛利隆元、一部の重臣たちの館が設けられました。これにより、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な城へと変貌を遂げました。元就の孫、毛利輝元の時代にはさらに石垣や瓦葺きなどの要素が加わり、近代的な城郭へと発展しました。天守閣は元就時代にはなく、見張り用の櫓が建てられていましたが、輝元時代には三層三階の天守が存在したともいわれています。

輝元は天正12年(1584年)にも城の修築や城下町の整備を進め、また豊臣秀吉に従属した後の使用を示す金箔瓦が出土しています。しかし、吉田郡山城は山間部の交通の不便な位置にあり、広島城が天正19年(1591年)に完成すると、その役割は終わりを迎えます。多くの家臣や商人たちは広島城下に移住し、吉田郡山城は事実上の廃城となりました。

江戸時代

江戸時代には、慶長20年(1615年)の一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、石垣や堀なども幕府の命により撤去されました。幕末には、広島藩の支藩である広島新田藩が成立し、吉田郡山城の山麓に陣屋が設けられました。明治時代になると陣屋は廃止され、その建物は移築されました。

また、江戸時代中期には「吉田郡山御城下古図」と呼ばれる絵図が作成され、毛利家文書として山口県文書館に収蔵されています。幕末にも浅野氏による測量が行われるなど、吉田郡山城の調査や記録が続けられました。

現代

1940年(昭和15年)、吉田郡山城跡は国の史跡に指定されました。その後、1988年(昭和63年)には多治比猿掛城跡も追加され、「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」としてさらに保護が強化されました。1990年(平成2年)には、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館し、毛利氏に関連する資料が公開されています。

さらに、1995年(平成7年)頃からは渓流砂防事業に先立つ発掘調査が行われ、毛利氏時代のものやそれ以前の遺構・遺物が発見されました。2006年(平成18年)には「日本100名城」に選定され、観光地としても広く知られるようになりました。

構造と特徴

吉田郡山城は標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部を中心に、放射状に延びる尾根とその支尾根、谷部にかけて大小270以上の曲輪が配置されています。この複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは一線を画する特徴を持っています。

城の南側には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、城域の総面積は約7万平方メートルに及びます。山頂部を本丸とし、その下に二の丸、さらに三の丸が続きます。本丸から三の丸周辺までの中心部分には石垣が使用されており、城の防御性を高めています。

主要な曲輪の紹介

本丸

本丸は郡山山頂に位置し、一辺が約35メートルの曲輪です。ここには毛利元就の屋敷がありました。北端には一段高くなった櫓台があり、長さ23メートル、幅10メートルの広さを持ちます。天正15-16年(1587-1588年)頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣があったことが描かれています。

二の丸

二の丸は高さ0.5メートル、幅1メートルの石塁や石垣で囲まれており、27メートルと15メートルの方形に区画されています。南側には石垣跡が残っており、かつては東側と西側にも石垣が存在したと考えられています。

三の丸

三の丸は城内で最大の曲輪で、石垣や土塁、掘削などによって四段に分かれています。西側の虎口には石垣の中に階段が組み込まれており、近世城郭的な構造を持っています。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷があったとされています。

釜屋の壇

釜屋の壇は本丸から15メートル下がった北側に位置し、炊事場がありました。ここは6つの段で形成されており、北へ向かうと羽子の丸に続きます。

厩の壇

厩の壇は三の丸の東から東南に400メートル伸びる尾根の基部に位置し、壇の下には馬場がありました。厩の壇は11段、馬場は9段の曲輪群から成り立っています。

妙寿寺の壇

妙寿寺の壇は郡山南側を守る13段の曲輪から成ります。

勢溜の壇

勢溜の壇は、御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪群で構成されます。この壇のすぐ側を通る道は、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が駐屯するなど、厳重な防御線を形成していたと考えられます。

釣井の壇

釣井の壇は本丸の西側に位置し、直径2.5メートルの石垣で組まれた井戸がある一段の曲輪です。現在、井戸は埋もれており深さは4メートルにとどまっています。

姫の丸

姫の丸は本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたります。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝えられています。

満願寺の壇

満願寺の壇は、満願寺を含む6段からなる曲輪群です。

矢倉の壇

矢倉の壇は、勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある8段の曲輪群です。

一位の壇

一位の壇は矢倉の壇の北側にある10段の曲輪群です。

尾崎丸

尾崎丸は、旧本城と新城を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されています。独立的な性質を持つ17段の曲輪群で、毛利隆元の居館があったと推定されています。

旧本城

旧本城は尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、毛利元就が城郭域を拡張する前の本城でした。戦国時代初期の山城の形態をよく残しており、標高293メートル(比高90メートル)に位置します。旧本城の本丸にあたる曲輪には、西側の高台に物見台や毛利隆元の一時的な居住屋敷がありました。

羽子の丸

羽子の丸は本丸の北東(艮)の方角にあり、詰めの丸的な役割を持つ独立的な曲輪です。釜屋の壇とは幅7メートル、深さ3メートルの堀切で隔てられており、9段の曲輪から成ります。

千浪郭群

千浪郭群(せんろうかくぐん)は、郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守る9段の曲輪群です。

堀・縄手の構造

大通院谷(だいつういんだに)

郡山城の西にある大通院谷川には、旧石器時代から近代までの複合遺跡として大通院谷遺跡が存在し、高宮郡衙関連遺跡と共に毛利元就・輝元時代に作られたとされる薬研堀や屋敷跡などが発見されています。薬研堀は谷から南西に向けて掘られ、郡山南麓を取り巻く内堀の起点となっています。

内堀

大通院谷から南麓を取り巻き、旧本城のあった東の尾根まで内堀が続いていました。現在の安芸高田少年自然の家前から県立吉田高等学校・市立吉田小学校の方向に堀があったと推定されています。これらの堀の内側は、吉田郡山城を守備する里衆の居住区として機能していました。

外堀

吉田盆地を流れる可愛川と多治比川が、天然の外堀としての役割を果たしていました。

縄手

内堀の外側には道路(縄手)が整備されていました。城内の大手筋を下り、勢溜の壇を通って城下に出る縄手は、内堀に沿って吉田の町へと繋がっていました。この縄手は、大内軍や尼子軍の侵攻に対して防御の要所となりました。

歴史的背景

吉田郡山城は、戦国時代に毛利元就が毛利氏の本拠地として拡張・改修し、領地を守るための重要な拠点として機能しました。元就がこの城を拠点にして中国地方を制圧し、毛利氏の権力基盤を確立したことで知られています。江戸時代に入ると、毛利氏は萩に移り、城も廃城となりました。

Information

名称
吉田郡山城
(よしだ こおりやまじょう)

三次・世羅・庄原

広島県