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新日山 不動院(安国寺)

(ふどういん あんこくじ)

不動院は、広島県広島市東区に位置し、真言宗別格本山として広島県真言宗教団に属する歴史深い寺院です。この寺院は、地域住民や参拝者にとって信仰の中心であり、長い歴史と豊かな文化を誇っています。

不動院の本尊は薬師如来であり、信仰の対象として多くの参拝者が訪れます。また、山号は新日山と称されています。歴史的背景として、足利尊氏と直義兄弟が各地に設立した安国寺利生塔の一つとして知られており、安芸国安国寺とも呼ばれています。現在、不動院は全国安国寺会の会員寺院として、その伝統と文化を継承し続けています。

不動院の歴史

中世の歴史

不動院の開基については諸説ありますが、一般的には行基によって開かれたと伝えられています。しかし、創建年代や由緒については明確な記録が残っておらず、様々な説が存在します。本尊薬師如来像の様式から推察するに、平安時代に創建されたと考えられています。

また、不動院は足利尊氏とその兄弟である直義公が日本各地に設立した安国寺の一つとして位置づけられています。安国寺として、安芸国の守護であった武田氏の菩提寺として栄えました。しかし、戦国時代に入り、戦火により寺院の伽藍は焼失し、武田氏の滅亡とともに一時的に荒廃しました。

その後、毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊によって寺院は復興を遂げました。関ヶ原の戦いでは西軍に加わった恵瓊が処刑され、毛利氏も転封後に福島正則が芸備両国の大名として不動院に入国しました。福島正則の祈祷僧である宥珍が住持となり、この時点で宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊として不動院と称するようになりました。

近世から現在にかけての歴史

江戸時代に入ると、浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け、不動院は安定した時期を迎えました。しかし、時代は明治に移り、寺院は時代の流れに伴い、権力者の手から庶民の信仰の場としての役割を果たすようになりました。

第二次世界大戦中、不動院は広島市内の避難先として機能し、多くの被爆者を受け入れる場となりました。1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾により、爆心地から約3.90kmに位置した不動院も被爆しました。爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱が折れる被害を受けましたが、全体としては倒壊を免れました。当日は多くの避難者が境内に集まり、負傷者で溢れ返った様子が記録されています。

戦後、不動院は修復作業を経て、再び地域の信仰の中心としての役割を果たし続けています。1958年には金堂が国宝に指定され、1993年には広島市に現存する被爆建物リストに登録されるなど、その歴史的価値が高く評価されています。

文化財としての不動院

金堂(国宝)

不動院の金堂は、その建築様式と歴史的価値から国宝に指定されています。金堂の天井には墨書があり、天文9年(1540年)の建築であることが判明しています。屋根は入母屋造りで、柿葺きが施されています。

金堂は二階建てのように見えますが、実際には一重裳階付きの構造で、桁行3間、梁間4間の身舎の周囲に裳階が巡らされています。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする設計です。内部は土間床の一室とされ、中央には鏡天井が設けられ、その周囲にはぎっしりと組物が並んでいます。桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木など、禅宗仏殿特有の形式が見られます。天井高は8.6メートルに達し、壮麗な空間が広がっています。

この金堂は、もともとは山口市にあった寺院からの移築物とされ、横浜国立大学の名誉教授である関口欣也氏によって、戦国時代末期の天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊によって香積寺(現在の瑠璃光寺)から移築されたことが明らかにされました。これ以前は、凌雲寺からの移築とされていたものの、詳細は謎に包まれていました。

原爆の被害をほとんど受けず、広島市内に現存する唯一の国宝として、その貴重な存在感を放っています。

重要文化財(国指定)

鐘楼

鐘楼は、永享5年(1433年)に建立された建築物で、内部には高麗鐘が収められています。この鐘楼は、当時の建築技術と美術の粋を集めたものであり、歴史的価値が高い重要文化財として指定されています。

楼門

楼門は、文禄3年(1594年)に建立された門で、建築形式的には「二重門」として知られています。三間一戸の設計で、二階建ての二重門構造、入母屋造り、本瓦葺きが特徴です。上層の尾椎には「朝鮮木文禄三」(1594年)の刻銘があり、文禄の役に従軍した恵瓊が当時の朝鮮から持ち帰った良材を使用して建てられたと伝えられています。

木造薬師如来坐像

木造薬師如来坐像は、檜材寄木造で、平安時代後期に制作されたものです。金堂の本尊であるこの坐像は、高さ約1.4メートルあり、面相は円満で、衣文は流麗な仕上がりとなっています。定朝様式の藤原時代の秀作として、高い評価を受けています。

梵鐘

梵鐘は、高麗時代に制作されたもので、高さ約1.6メートル、直径約65センチメートルの大きさを持っています。四面には天女の文様が美しく彫られ、その中に蓮華の中に座する菩薩の像が描かれています。また、信相菩薩の銘が刻まれており、宗教的意義と芸術的価値が高い重要文化財とされています。

不動院の歴史的意義と文化的価値

不動院は、その長い歴史の中で多くの試練を乗り越え、現在もなお地域の信仰の中心として重要な役割を果たしています。江戸時代の「新山雑記」には、当寺の開基が僧空窓であると記されており、「当山記」には行基が開基と伝えられていますが、具体的な創建年代や由緒については明確な記録がありません。

しかし、金堂内に安置されている本尊薬師如来像の様式から、平安時代に創建されたと推察されます。また、不動院は南北朝の戦乱で散った武士たちの霊を慰めるため、足利尊氏と直義公兄弟が設立した安国寺の一つとしての由来を持ちます。以後、安芸安国寺として、安芸国の守護武田氏の菩提寺として繁栄を遂げました。

戦国時代の大永年間(1521~1527年)には、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍が焼け落ちました。その後五十年にわたり、藁屋に本尊薬師如来を安置するのみの状況が続きましたが、毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊の尽力により復興が進みました。恵瓊は、豊臣秀吉公の直臣として名を馳せる中、当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを再建し、寺院の繁栄をもたらしました。

しかし、関ヶ原の戦いで西軍に組んだ恵瓊が非業の死を遂げ、毛利氏も防長二国に転封となると、寺院の運営は困難に直面しました。その後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、祈祷僧である宥珍が住持となりました。この時点で宗派が禅宗から真言宗に改められ、不動明王が本尊とされ、本坊として不動院と称されるようになりました。以後、浅野氏の保護を受けつつ、明治に至るまで寺院は安定を保ちました。

不動院は、昭和20年8月6日の原子爆弾投下に際しても山麓という地理的条件により被害を免れました。そのため、広島市内で多くの文化財が失われる中、不動院は幾世紀にもわたる歴史と文化を現在に伝える貴重な存在となっています。

Information

名称
新日山 不動院(安国寺)
(ふどういん あんこくじ)

宮島・広島市

広島県