廣島護國神社は、広島県広島市中区に位置する護国神社です。この神社は、広島県西部(旧安芸国)出身の戦没者をはじめ、広島市への原子爆弾投下によって犠牲となった勤労奉仕中の動員学徒や女子挺身隊など、約9万2千柱の霊を祀っています。
廣島護國神社は、広島城内に敷地を持ち、広島市中央公園の一部に位置しています。しかし、1956年にこの神社の敷地は公園区域から除外されました。毎年多くの初詣客が訪れることで知られ、中国地方で最も初詣参拝者が多い神社の一つです。1月1日から7日までの間に、50万人以上が参拝し、市の中心部に位置しているため交通の便も良く、広島市民にとって馴染み深い神社です。
また、地元プロ野球チームの広島東洋カープが必勝祈願のために毎年1月にチームとして参拝することでも知られています。この参拝は、球団のキャンプイン時期に合わせて行われることが多いです。
廣島護國神社の起源は1868年(明治元年)に遡ります。当時、芸州藩主浅野長訓により、戊辰戦争で戦死した高間省三以下78名を奉祀するために「水草神社」として広島大須賀二葉の里に建立されました。1876年には官祭招魂社に昇格し、1901年には「官祭広島招魂社」と改称されました。
1934年には社殿の老朽化に伴い、現在の広島市民球場付近にあった西練兵場の西端に移転。1941年に「広島護国神社」と改称されましたが、1945年8月6日の原子爆弾投下によって社殿は大鳥居を除き全て破壊されました。その後、社司足立達が御霊代を厳島神社に奉還し、1947年には旧社地に仮社殿が建設され、御霊代が戻されました。
廣島護國神社は、1956年に現在の場所へ移設され、再建されました。再建された社殿は、昭和天皇の広島行幸の際に奉迎場が設けられた地でもあります。社務所の造営工事も進められ、1958年には社務所の建設が完了しました。さらに、1960年には神社本庁の別表神社に加列され、正式に「廣島護國神社」として認められました。
1993年には明仁天皇の御大典記念事業として現在の社殿が建立され、本殿遷座祭が執行されました。これにより、現在の壮大な社殿が整備され、崇敬会の結成なども行われ、社務所や参集殿の改築工事も進められました。
1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下時、護国神社は旧広島市民球場周辺にありました。爆心地からの距離が近いため、建物は大鳥居を除いて全て失われました。唯一残された大鳥居は、中国放送の横に移設され、その後も小祠を設けて祭祀が続けられています。
1998年、廣島護國神社は創建130周年を迎え、それに伴い施設の拡張工事が開始されました。この拡張工事は2009年に完了し、11年の歳月をかけて社頭の整備が行われました。この工事は、広島城本丸の南西部に位置する神社が、広島市の景観に影響を与えないよう配慮されながら行われました。広島市からも景観に対する慎重な対応が求められたため、時間がかかることとなりました。
廣島護國神社は、広島市民にとって重要な祈りの場であり、戦没者や原爆によって命を落とした方々を慰霊する神社です。また、広島東洋カープの必勝祈願をはじめ、多くの広島市民にとって親しみ深い存在となっています。戦後の復興を経て、現在の姿となった廣島護國神社は、広島の歴史と平和を象徴する場所として、今後も多くの人々に訪れられることでしょう。