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広島陸軍被服支廠

(ひろしま りくぐん ひふく ししょう)

広島陸軍被服支廠もしくは出汐倉庫(でしおそうこ)は、広島県広島市南区出汐に位置する施設で、かつては大日本帝国陸軍の被服廠として建設されました。この建物は、広島市への原子爆弾投下の爆心地から2670メートルの距離にあり、鉄扉が歪むなどの被害を受けましたが倒壊することはなく、被爆者が殺到し臨時救護所として使用されました。戦後は学生寮や運輸倉庫として使用され、1990年代後半からは空き施設となっています。現存する4棟は広島市によって「被爆建物」の一つとして認定され、日本の鉄筋コンクリート造建物としては現存最古級という建築史的価値を持っています。そのため、市民による保存運動が行われており、広島県は保有する3棟を耐震補強する方針を示しています。さらに、この施設は国の重要文化財にも指定されています。

概要

出汐倉庫は、かつて兵員の軍服や軍靴などを製造する施設として使用されていました。戦後、建物は学生寮や運輸倉庫など様々な用途に転用されましたが、1997年以降は閉鎖され、遺構として放置されています。現在、「出汐倉庫」の名で知られており、基本的には立入禁止となっています。見学を希望する場合は、事前に広島県財産管理課に連絡が必要です。

機能

被服廠では、軍服や軍靴だけでなく、マント、下着類、帽子、手袋、靴下、背嚢、飯盒、水筒、ふとん、毛布、石鹸、鋏、小刀、軍人手帳などの雑貨類まで、多岐にわたる品目を取り扱っていました。大正・昭和時代に戦線が拡大すると、被服廠は防寒服、防暑服、航空隊用、落下傘部隊用、挺身隊用の被服や防毒用被服の取り扱いも行うようになりました。被服廠では、主に軍服の縫製と軍靴の製造を行い、その他の物品の製造は民間工場に委託され、受発注、品質管理、貯蔵、配給業務を主に担当していました。これに加え、中四国地方や九州における物資の生産を行う民間工場の管理指導や国民の被服監督も行っていました。

職工の状況

1924年(大正13年)当時、被服廠の職工は652人(男性262人、女性390人)であり、1929年(昭和4年)には505人(男性228人、女性277人)でした。女性職工のほうが多い状況でした。1924年当時の最低賃金は男性が1円20銭、女性が90銭であり、最高賃金は男性が4円、女性が3円でした。職工には本人および家族の診療や乳幼児保育などの福利厚生も充実していましたが、募集は主に良家の子息を対象とし、入工に際しては身元調査が重視されていました。

分散化の取り組み

1943年(昭和18年)後半から、米軍による空爆が行われるようになると、製造設備と貯蔵品の分散化が図られ、広島支廠の管轄下に倉敷出張所、児島作業所、宇品作業所が新設されました。

沿革

創設と発展

1905年(明治38年)4月に陸軍被服廠広島出張所として開設され、同年12月には市内皆実町(当時)に現在の建物が全面竣工しました。1907年(明治40年)11月には支廠に昇格し、創設当時は東京・大阪と並んで全国に3ヶ所のみ存在し、3所ともに連携して業務を行っていました。敷地は大正初期には7万坪に及びました。近隣には1906年に陸軍兵器支廠が北側の東新開町(現在の霞町)に移転しており、陸軍要塞砲兵連隊や演習砲台などの陸軍施設も多数所在していました。

交通アクセスと地域の変遷

開設時の最寄り駅は敷地の東側を通る国鉄宇品線の「比治山簡易停車場」でしたが、被服支廠の開設に伴い支線(引き込み線)が設置され、支廠の発着荷物の取り扱いが行われました。しかし、1919年8月に同停車場は廃止され、その後1930年には「被服支廠前停留場」が復活開業し、その後上大河駅と改称されました。また、広電宇品線・皆実線の電車通りから被服支廠へ通じる道は「被服廠通り」と呼ばれ、現在の皆実町中通り商店街の起源となりました。

原爆被災とその影響

1945年(昭和20年)8月6日に投下された原子爆弾により、広島市は壊滅的な被害を受けましたが、爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったため、焼失や倒壊を免れ、救護所として使用されました。避難してきた多くの被爆者がここで息を引き取り、当時の惨状は峠三吉の『原爆詩集』の詩「倉庫の記録」「仮繃帯所にて」に描写されています。このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残されており、広島平和記念資料館には爆風で浮き上がったレンガ塀の笠木が保存されています。

戦後から現在まで

敗戦により廃止された被服支廠の旧施設・敷地は、1947年(昭和22年)以降、広島大学・広島高等師範学校校舎、大蔵省中国財務局庁舎、公務員宿舎用地、個人住宅用地、県立学校(皆実高校・県立広島工業高校)用地、国道2号線用地など様々な用途に転用されました。その過程で建物は現在残されている4棟を除いて解体されました。被服支廠本館は戦後1964年まで県立皆実高の本館として使用され、その後も美術・書道教室として長く使われましたが、現在は現存していません。

その後、残る4棟のうち1棟のみが広島大学の学生寮「薫風寮」として使用され、残りの3棟は日本通運に所有が移り倉庫として使用されました。1995年には日本通運も使用を停止し、施設は県へ譲渡され、1997年以降は4棟とも完全に未使用状態となりました。現在、これらの建物は「旧日本通運出汐倉庫1-4号棟」として市によって被爆建物台帳に登録されています。

再利用計画と保存の取り組み

広島県が保存に向けて考え始めたのは1980年(昭和55年)のことでした。1993年(平成5年)、県の主催で保存・活用方策懇話会が開催され、「文化、歴史・平和、アジアの視点を基本に活用すべき」との意見で一致しました。その後、いくつかの利用計画が提案されましたが、バブル崩壊の影響による厳しい財政状況と、再利用には1棟あたり20億円を超える耐震補強が必要であることから実現には至りませんでした。

2019年12月4日、広島県は所有する3棟のうち2棟について倒壊の恐れがあるとして解体する方針を示しましたが、保存を求める声が高まったことに応え、2021年5月19日には全3棟を耐震化することを決定しました。また、2022年5月18日には国所有の1棟も広島県と同様に保存されることが決まりました。

G7広島サミットとの関連

2023年5月17日、神戸市の大学院生が、この建物を「被害と加害の両面を伝える重要な文化財」として、G7広島サミットの取材に来た海外メディアに対して説明しました。また、2023年5月21日には「日曜報道 THE PRIME」の生放送の会場として使用され、この建物やG7広島サミットについての議論が行われました。

Information

名称
広島陸軍被服支廠
(ひろしま りくぐん ひふく ししょう)

宮島・広島市

広島県