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千畳閣

(せんじょうかく)

千畳閣について

千畳閣(せんじょうかく)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社建築であり、厳島神社の末社である豊国神社の本殿の通称です。この建物は、畳857枚分に相当する広大な面積を持つことから「千畳閣」と呼ばれるようになりました。

千畳閣の概要

千畳閣は、豊臣秀吉が戦没者の慰霊と千部経の読誦を目的として天正15年(1587年)に発願し、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に命じて建立させた本瓦葺き入母屋造りの大経堂です。しかし、秀吉の没後、天井の板張りや外構の工事が完了しないまま今日に至っています。豊国神社の社号は、秀吉が没後に「豊国大明神」(ほうこくだいみょうじん)として神として祀られたことに由来しています。明治5年(1872年)に秀吉霊神を祀る神社として豊国神社と改称され、さらに大正7年(1918年)には宝山神社の祭神である加藤清正霊神が合祀されました。

世界文化遺産としての登録

1996年(平成8年)12月、千畳閣とその隣にある五重塔は、厳島神社の構成資産としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。これにより、千畳閣と豊国神社はその歴史的価値をさらに広く認識されるようになりました。

千畳閣の御利益

豊国神社の祭神である豊臣秀吉は、農民から天下人にまで上り詰めたことから、「出世のご利益」があるとされています。また、秀吉は「人たらし」としても知られており、その影響力や人間関係の構築能力は多くの人々にとって模範となっています。そのため、この神社では「仕事の人間関係の向上」や「幸運招来」「良縁招来」のご利益があるとされています。

千畳閣の見どころ

千畳閣の見どころの一つとして、殿舎の中に祀られている”特大しゃもじ”があります。宮島は古くから木製しゃもじの産地として知られ、誓真という僧侶がその製造技術を広めたと言われています。しゃもじは「勝利をすくい取る」という意味を持ち、戦勝祈願のために奉納されたものもあります。これらのしゃもじは、千畳閣の内部でその巨大さと共に圧倒的な存在感を放っています。

千畳閣の由緒

千畳閣は天正15年(1587年)、豊臣秀吉が戦没将兵の慰霊のために建立した大経堂です。しかし、秀吉の死後、工事が中断され、板壁や天井の板張りが未完成のままとなっています。明治初年の神仏分離により、本尊の釈迦如来坐像や阿難尊者像、迦葉尊者像は大願寺に遷されましたが、千畳閣は厳島神社の末社として豊臣秀吉霊神を祀る神社となりました。さらに、大正7年(1918年)には宝山神社の祭神である加藤清正霊神が合祀されました。

千畳閣の祭神

豊臣秀吉霊神

豊臣秀吉霊神は、神仏分離令後の明治5年に祀られました。秀吉はその生涯において数多くの功績を残し、日本史において非常に重要な人物として知られています。

加藤清正公霊神

加藤清正公霊神は、大正7年に合祀されました。加藤清正は、豊臣秀吉の家臣であり、その武勇と忠誠心で知られています。

千畳閣の社殿

本殿

千畳閣の本殿は、もともとは大経堂(仏堂)として建立されました。秀吉が天正15年(1587年)に戦没者の供養のために発願し、毛利輝元に命じて建立させたもので、実際の建築の指図は安国寺恵瓊によって行われました。鬼瓦には天正17年(1589年)の銘があり、この頃までには建物の形が完成していたと考えられますが、秀吉が朝鮮出兵を決意したことで工事は中断され、今日まで未完成のままとなっています。本殿は入母屋造、本瓦葺であり、その規模の大きさから「千畳敷」と通称され、857枚の畳に相当する広さがあります。内部は2間ごとに独立柱が立ち、中央奥に須弥壇を設けています。この建物は国の重要文化財に指定されています。

五重塔

千畳閣の隣に立つ五重塔は、応永14年(1407年)に建立されました。この塔は、戦国時代の天文2年(1533年)に改修されたことが、露盤下品軒覆の鉄板鋳銘から分かっています。塔内の仏像は、明治元年の神仏分離令により大願寺に遷されています。五重塔は、檜皮葺で高さは27.6メートルあり、その壮麗な外観は訪れる者を圧倒します。この五重塔も国の重要文化財に指定されています。

文化財としての指定

千畳閣と五重塔は、国の重要文化財として指定されています。具体的には、千畳閣として知られる厳島神社末社豊国神社本殿は、1910年(明治43年)8月29日に、また、厳島神社五重塔は1900年(明治33年)4月7日にそれぞれ指定を受けました。これにより、これらの建造物は日本の文化遺産としての価値が認められ、保存・管理が徹底されています。

Information

名称
千畳閣
(せんじょうかく)

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